「なんだ、帰ってたのか」
 ぼろぼろの身体を引きずって帰り着いた部屋に予期していなかった人影を見つけて、彼は無感動にそうつぶやいた。窓際のスツールに腰かけ、組んだ膝の上に置いた本を読みふけっていた男がゆっくりと顔を上げてこちらを向く。
「ああ。久しぶりだな」
「そうか?ついこの間帰ってきたばかりだろ」
 ぶつくさと返して、後ろ手にドアを閉める。ところどころ焦げた白衣の煤を適当に払いながら、部屋の奥へと踏み込んでいった。
「またやられたのか」
「見ての通りさ。あの悪魔め……今度こそ、二度とあんな真似ができないように叩きのめしてくれる」
 甲高い笑い声をあげながら立ち去っていく魔女の後ろ姿を思い出して、歯噛みする。ポケットから取り出したレンチを振りかざして、平然と読書に戻った男の横顔に怒鳴り散らした。
「さあ手伝え助手!今すぐ新たな作品に取りかかるぞ」
「悪いが俺は疲れてるんだ。作業なら明日にしてくれないか」
「お前、そんな勝手が許されると思ってるのか!それでも助手か、お前は僕のかくも素晴らしき発明に携わる栄誉を与えられているというのに!」
「その『かくも素晴らしき発明』にかまけて、俺の大切な大切なサボテンを枯らしたことを忘れたわけじゃないだろうな」
 さり気なく、だが確実に棘を含ませた声で、コルゴン。彼は、ほんの一瞬だけぎくりと唇を戦慄かせたが、すぐに気を取り直してあらためてレンチを握りなおした。
「それはそれ、これはこれだ。お前も言うことがいちいち女々しいぞ」
「そうか、俺がどんな苦境を乗り越えてあのサボテンを手に入れたかお前には伝わらなかったんだな。もう一度だけ聞かせてやろうか」
「もういい!お前なんかに頼むもんか、好きに寝るなりまた旅に出るなり勝手にしろ!僕はひとりで取りかかるぞ、明日こそあの女に目に物見せてくれる!」
 こちらはこんなにも必死だというのに、涼しい顔をして半年も前のサボテンの話なんぞを持ち出すルームメートに怒声を浴びせて部屋を飛び出した。あいつの顔を見るのが癪で、その夜はそのままキリランシェロの部屋に押しかけて過ごしたのだが。
 翌朝、こっそりと覗いた部屋に、あいつの姿はもうなかった。
「え?コルゴン帰ってたの?」
 そのことすら知らなかったと、レティシャが首を振る。
「それより、アザリーが探してたわよ?行ったほうがいいんじゃない?」
 アザリーが。その言葉に一瞬ぎょっと身をすくませたが、すぐにふふふと笑みを浮かべてガッツポーズを作った。
「自ら進んでやられにこようとは……愚かな魔女め、我がアジャスター君二号の前にひれ伏すことになろう」
「馬鹿なこと言ってないで早く行ってあげれば?」
 冷ややかに手を振って、立ち去るレティシャの姿を見送って。

 結局はその夜も、無残に破壊されたアジャスター君と共に咽び泣く羽目に陥るのだが。

 暗く、静まり返った部屋の明かりをつけて。
 煤けた臭いに包まれながら、くしゃくしゃのシーツに倒れ込む。
 そして初めて、ベッドの枕元に置かれた小さな箱の存在に気付いた。
 見慣れない物体に、眉をひそめてそっと手を伸ばす。飾り気も何もない、ただの薄っぺらな箱だったけれど。
 ふたを開くと、中から現れたのは五本セットの黒い棒の束だった。
「……まさか、これは」
 箱の中から取り出して、高鳴る鼓動をそのままに、しげしげと眺める。それは一年も前から彼が焦がれてやまなかった、繊細な曲線を描く六角棒スパナだった。ベッドから飛び上がり、掴んだスパナを大げさに振りかざす。
「これさえあれば、次こそはあの女をぎったんぎったんに……」
 裏返した箱の底には、トトカンタ製、とある。そうか、あいつ、今度はトトカンタに行ってきたのか。
(トトカンタ……)
 目立った思い出は、ない。けれどもそこは、確かに彼にとっては特別な思いのある都市のひとつだった。トトカンタ製の、あいつが買ってきた、スパナ……。
 あいつは多くを語らない。いや、正確には、必要なことは何も語らず、不要なことをやかましくあげつらうといったほうが当たっているだろう。昨夜のサボテンの件も然りだ。
 だが本当は、伝わっているのだと。
(……一度くらいは、言ってやってもいいかもな)
 不思議と満ち足りた思いに包まれながら、彼の手は冷たいスパナを握り締めたまま、しっとりと夢の世界へと導かれていった。

僕は、高らかに叫ぶこともできる



(08.06.02)
タイトルはネルラトラテ様からお借りしました!