雨だった。激しく天井を叩きつける音がしたし、それと分かる独特の臭いが鼻を突く。雨が降るとそれだけで足は滞る。硝化の森には天候の変化など訪れはしないが、濡れた身体を引き摺って立ち入るにはそこはあまりに危険すぎる。野営地で雨雲が通り過ぎるのを待つのが賢明だし、それがいたって自然だった。

それだというのにマリオは朝早くからテントを抜け出して一足先に森の状況を見てくると言った。無抵抗飛行路に入ってしまえばそれこそ雨風も全く関係がないという。引き止める必要も、またそうしても無駄だということは長年の付き合いで互いによく分かっている。アイゼンたちも敢えて反対などしまい。彼女の機転が役立つことはよくある。

一方のフリウは自分が為すべきことを見出せないままにテントの中で膝を抱えてじっとしていた。雨は一向にやむ気配を見せない。雇い主との契約期間はあと四日だ。このまま悪天候が続けばと考えてフリウは重々しく息を吐いた。この間の仕事も自分がもたもたと動いたことで他のチームに先を越されてしまった。同じ過ちを繰り返さぬようにと磨いたつもりの技術もこの雨ではしばらく発揮できそうにない。フリウはまた大きく溜め息を吐いた。

「嬢ちゃん、起きてっか」

その時、下ろしたテントの入り口からいかにも軽薄そうな声がした。フリウはぱっと顔を上げてそちらを見る。閉じたはずのドアが開いて派手な髪色の男がニヤニヤと顔を覗かせていた。

「ちょ、返事くらい待ってよ!着替えとかしてたらど……」
「ははー、そんなこと気にするお年頃になったか、嬢ちゃんも。安心しろよ、俺はお子様に興味なんかないね」
「そういう問題じゃ……」

抗議している間にもラズは無遠慮にずかずかとテントの中に立ち入ってくる。フリウは尻の下に敷いたタオルケットをずらして無意識のうちに手繰り寄せた。そう高くはない天井にぶら下がったランプの光量を片手で弄って少し上げながらラズは笑う。

「ひょっとしてマジで着替え中だったりしたか?」
「……そうじゃないけど」
「だったら何隠してんだよ。あ、エロい本でも見てたのか」
「何でよ!バっカじゃないの、ラズじゃあるまいし!」
「怒るなよ、冗談だろ。狩りにンんなもん持ってくる奴はチームから外すぜ」
「真面目な顔して言うことじゃないでしょ、それ!」

顔を真っ赤に染めて怒鳴ると、ラズはまたケラケラと笑いながらランプから右手を外す。そうして知った風な眼差しで、床に座り込んで見上げるフリウを見た。この瞳が、少し苦手だ。そう感じるようになったのはごく最近のことだ。

「……何しに来たの」
「おっと、ご挨拶だな。お優しいラズ様が遠路遥々こうして足を運んでやったというのに」
「……テント、すぐ向かいじゃないの」

不貞腐れた風に唇を尖らせてジロリと睨むと、ラズは大袈裟に肩を竦めてフリウのちょうど正面にどさりと腰を落とす。胡坐をかいて愉しげに目を細め、フリウを見た。そこで初めて、彼の綺麗な黄色の髪が僅かに湿っているのに気付く。ほんの数メートルといえどこの雨の中を走ればどうしたって濡れるだろう。フリウは少しだけ胸が痛んだ。

「嬢ちゃん、さ」

出し抜けに、ラズが言った。フリウは視線を彼の髪から瞳に戻して瞬く。一方ラズは彼女の頭を見ているようだった。僅かに眼球が上を向く。

「嬢ちゃんは、染めねえの?」

フリウは意味もなく俯き、親指と人差し指で一房を摘んだ自分の髪を見る。以前に比べて随分と伸びたその髪はテントで休む時以外は大抵後ろで一つに纏めていた。父と森に入っていた頃は傷めないために短くするより他になかったが、今は伸ばしていてもその髪を傷めないようにする方法を見出せる程度には成長したつもりだ。

「……別に染めたいって、思わないし」
「ふうん。嬢ちゃんくらいの年頃ならちっとは飾りたいとか思うもんだと俺は思うがね」
「マリオだって染めてないし」
「あの子はいーんだよ、あの子の髪はもともと綺麗だから」
「は!ちょっと何それ、あたしの髪が綺麗じゃないって言いたいの!?」
「そんなことは言ってねーだろ」

被害妄想、と言ってラズはあからさまに子供扱いでもするように、伸ばした右手でフリウの頭を撫でる。思わずびくりと反応してしまいそうになったことを隠そうと派手に首を振った。ラズはすぐにその手を離して笑う。

「ただ、ちょっとはそういう気になったりしないもんかなと思っただけだ」

フリウは抱えた膝に被せたタオルケットをぎゅっと握り締めて探る風に視線を上げる。そして数日前に染めたばかりの彼の髪を見た。

「ラズだってさ、地毛に戻そうとか思わないの?ずっと染めてたら髪、傷むよ」

ラズは両手を後ろについて胸を反らしながらまた声をあげて笑う。雨の音はまだ激しく響くが、それは心地良いBGMにすらならない。ただつまらなく一定に鼓膜を叩くだけだ。

「俺はいーんだよ、この色、気に入ってるから」

強い風が、吹いたのだろう。不快な音と共にテントが一度大きく揺れ、吊られたランプの影が二人の表面で不安定に踊った。ほんの一瞬、そしてそれを何度か繰り返して彼の髪が揺らめくのを見る。辺りの空気はまた落ち着いたが、相変わらず雨の音だけは続いている。

「……何で」

気付いた時には、呟いていた。ラズは顔を上げてフリウを見たが、俯いたきりその表情は窺えない。彼は呆れた風に唇を歪め、言う。

「何で何でって……相変わらずだな、嬢ちゃんは」

フリウは何も言わなかった。相変わらずだと言われて怒ったのかもしれない。はたまた失望したのか、ただ悲しんでいるのか。傷付けるつもりはなかったが、気付かせてやる程度のことは赦されるだろう。もっとも、言われるまでもなく自分で分かっているというのが可能性としては最も高いが。だとすればやはり自分は分かっていて彼女を傷付けたのだろうか?だがきっと、サリオンは何も言わない。

しばらく、恐らく数分ほど、黙り込んでいたフリウがようやく口を開いた。

「……あたしは、ただ」

ラズは胡坐をかいていた右膝を立ててその上に僅かに体重を移した。近付いた、だがやはり吐息が掠めることもない一定の距離を置いたままフリウの睫毛が俯いて微かに動くのを見る。

また何度かの呼吸を挟み、フリウは躊躇いがちに言った。

「ラズの黒髪、綺麗だなと思ってたから」

予想していない答えではあった。思っていたより可愛らしいことも言えるのだなと唇の端を持ち上げて笑ってみせると、染めたばかりの自分の黄色い髪を軽く摘んでよく見えるように上に上げる。フリウは俯いてこちらを見ていないが、それでもいずれは顔を上げるだろう。

「染めたって綺麗だろ?」

案の定、渋々といった様子で少しだけ顔を上げ、フリウはジロリとこちらを睨む。ラズは髪を持ち上げたまま、唇を弛めて彼女の反応を待った。彼女が困るであろうことは容易に想像できたが、意地悪く笑いながらいつまでも待つ。時間はいくらでもあるのだ。

「染めない方が綺麗だもん」
「可愛くねえな」

切り捨てる風にあっさりと言ってのけ、ラズは胡坐をかき直す。フリウは膝をしっかりと抱え、膨らませた頬と恨めしそうに開いた眼をその上から覗かせた。笑ってそれを軽くあしらうと、彼女はまた子供らしい顔で不貞腐れてみせる。ラズは右手を伸ばしてフリウの頭を撫で、嫌そうに首を振った彼女を一瞥してから物憂げに立ち上がった。

「俺らのテントに飯できてるぞ。嬢ちゃんも来いよ、腹が減ってんならな」
「え、でもマリオがまだ……」
「あ?あの子ならとっくに戻ってきて一緒に飯食ってるぜ」
「え!嘘!何で呼びに来てくれなかったの!」
「だから俺が呼びに来てやったんだろ。さ、ほら立て立て」

腰を折り、右手を伸ばしてフリウの手を引く。それは思った以上に冷たく、ラズは立ち上がらせた彼女の両手を二つの手のひらで包み込んだ。硝化の森は近く、随分と冷え込んだこの近辺では自らの温もりすら大切だが、人と触れ合うことで生まれる温度には到底敵わない。二人分の手に強く息を吹きかけて擦る。なぜかフリウは逃れようと身を捩った。

「なんだ、嫌なのか」
「………」
「嫌でも我慢しろ。もしも森で転んだりして装備がやられた時、温まるにはこれしかない。これも一人前のハンターになるための勉強だと思って我慢しろ」
「………」

アイゼンみたいだと彼女が苦笑するのを期待したのだ。もっぱら教育係はあいつの役目のはずだ。だがフリウはまだ嫌そうな顔をして上目遣いにラズを見たので、もう一度だけ手のひらを擦り合わせてからやっと放してやる。彼女は両手を後ろに回して曖昧に視線を逸らした。

(そんな微妙な年頃だったっけかな……)

口に出せばきっと、先程と言っていることが違うと彼女はまた怒るだろう。ラズはポケットに左手を突っ込んで気だるげに振り返った。出入り口を目指し、踏み出す。雨はまだ激しく降り続いているようだ。扉を押し開け、顔を覗かせながら言う。風に流され微かな雨が内側のラズの鼻先を濡らした。自分たちのテントはすぐ目の前にある。だが辿り着くまでに雨に打たれることは避けられまい。行きの道のりとまったく同じことだ。

「置いてくぞ、嬢ちゃん」

雨の音が、煩い。囁くように言った言葉は彼女の耳には聞こえなかったかもしれないが、大きな問題ではないだろう。何も言わなくとも彼女は、自分の後ろをついてくる。今までも、そしてきっとこれからも。並んで歩くのもいいだろう。少し引いて先に歩かせるのも。どうしたって互いに目の、耳のそしてこの手の許す範囲の距離を保てればきっとそれでいい。

叩きつけるような雨の中へと、大きく飛び出した。振り向きはしない。彼女もまた泥水を跳ねながら走る。ほんの数メートルだ。仲間たちの待つテントはすぐそこにある。

考えたところで何も見えないのなら、ただ心の思うままに進めばいい。目の覚めるように冷たい雨を時折こうして浴びるのも、そう悪くはない。




06.08.24