「これ 何だと思いますか?」
「……あなた、私をからかってるの?」
「そんな、とんでもない!誤解ですよ!」
男は舌足らずにそう捲くし立て、心底驚いたように空いた左手を大きく振った。彼の右手にあるのは、どうということのない、つまらないガラスの花瓶がひとつ。
彼女はすっかり馴染んだ自分の机に肘をつき、傍らに立ち尽くす男をじとりと見上げた。
「だったら、なに?子供の遊戯でもしたいのなら街頭に出てくればいい。暇をあげるわよ」
「そんな……違います、ユリアさんはボニートに行ったことがありますか?」
またいきなりそんなわけの分からないことを聞いてきた男に、眉をひそめ、疎ましげな視線を投げ付ける。
「……あるわよ。それが、何なの?」
すると男はその大きな瞳を子供のような好奇心に輝かせた。
「そうなんですか!昨日本で読んだんですけど、ガラスってもとはボニートで発明されたそうなんです。僕はてっきり、帝国の工房で作られたものとばっかり……」
「ボニートは、もともと陶磁器の製造が盛んだったのよ。あの国は火山帯が多いから、古の時代から天然ガラスも積極的に利用されていた」
さらり、と。つまらない知識を掘り起こすと、彼はしばらくぽかんと口を開けたあと、急に興奮したようにこちらに前のめりになった。反射的にそれをかわし、顔をしかめる。だが男は、そのことにはまったく気を払っていない様子だった。目尻を緩ませて、言ってくる。
「そうだったんですか!知らなかったです。ユリアさんは何でも知ってるんですね」
青臭い。声には出さずに、毒づく。椅子の上で身体を捻って男から顔を逸らしつつ、彼女は横目でちらりとそちらに視線を戻した。確か、十七歳といった。己の力を過信し、独りよがりに暴走する年頃だ。それを。
「ほんとにきれいですよね、このガラス」
彼はそう言って、手にした花瓶を天井の明かりに透かして見上げた。眩しそうに目を細め、慈しむようにして微笑む。
馬鹿馬鹿しい たかがガラス瓶ではないか?
「僕、いつかボニートのガラス工房に行ってみたいです」
こちらが無視を決め込んでいる間にも、男はうっとりとつぶやく。
「オリーブ畑に注ぐ陽光、樫の森、ぶとう畑、大型船の行き交う港町……いつかきっと、ボニートに行ってみせます」
つまらない、子供じみた夢の話。彼女は答えなかった。自分にあてがわれた部屋の中。定位置に着いて、手元に重ねた書類を見下ろす。
「ビードロ、というそうです。ボニートの古い言葉で、ガラス製品のことを『ビードロ』って……あ、ユリアさんならこの程度のこと、知ってますよね」
恥ずかしそうに頭の後ろを掻いて、彼は口を閉ざした。聞こえなかった振りをして、紙の束を数枚ぱらぱらと捲る。昨夜上がってきたばかりの書類。これもまた、この男と共に検めなければならなかった。
「知らなかったわ」
「へ、あ……え?」
ぽつりと発した彼女の声に、男は戸惑ったらしかった。呆然と立ち尽くす男に一瞥をくれて、何事もなかったかのように告げる。
「いいから、それをさっさともとの場所に戻してきなさい。始めるわよ」
「え?あ……はい!」
素直に大きく一礼して、花瓶を抱えた男は慌しく部屋を出て行った。ふう、と息をつき、肘をついたその上でそっと瞼を伏せる。
知らないことを、知らないと言える愚かな率直さ。
(学ばなければならないことが……私にも、あるのかもね)
胸中でつぶやいて、彼女は引き出しから取り出した小さなガラスのペンダントを見つめた。
ねえ 。
あなたは今、一体どこで、何をしているの?
いつかまた出逢える、その日を信じて。たとえ儚い、夢だったとしても。
『ビードロの魔女』。あなたが聞かせてくれた、心優しい魔法使いの物語。
それを忘れない限り。
あなたとの糸も、きっと繋がっていられるよね?
彼女は愛するその名を呼んで、ペンダントを引き出しの奥に大切に仕舞いなおした。
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